『あの日』から、数ヶ月がたった、ある日のこと。とある、嵐の夜だった。
ルチルの母、キュレットが倒れた。その最たる理由は、極度の衰弱。それを引き起こしたのは……心労、であった。
「母さん……」
ルチルは、暗い部屋の中で、独り座り込んでいた。時折闇を裂く雷光が、部屋を照らし出すものの…全体の暗闇が、拭われることはない。
暗い中、鏡面に似たガラス窓に移りこむ、自分の姿。数ヶ月前の『あの日』以来、左目は赤いまま。どれほど探そうとも解決策を見つけられぬまま、今日この日まで来てしまった。けれど……
「もう…どうでもいい、って、言ってられないよ……」
ゆらりと身を起こし、ドアを押し開け外へ出る。
今日は、父も家の中にいる……。喧騒止まぬ母の部屋には近づかないような道を通って、ルチルは静かに歩みを進めた。
* * *
ガラス戸を打つ雨の音。重くのしかかる遠雷の声。騒がしいほどではないとはいえ、ノックの音はそれにかき消されたのか。
一瞬、ガラス戸に移りこんだ姿を見るまで、息子が部屋に入ってきたのがわからなかった。
「父さん……お話があります」
普段はどこかのほほんとした息子が醸し出す硬質な雰囲気に、ルチルの父…フォスフィルは、ルチルに向き直った。
「…何だ?」
「どこかに、全寮制の学校はありませんか? ……僕は、この家を出ます」
驚きは、なかった。いつかこうなるだろうと、どこかで予測していた…そんな気もする。この子の目が赤く染まり…妻が、震える声で『とある事』を告げた、その時から。
「それは、おまえ自身の意思なのか? ルチルよ」
重々しいフォスフィルの言葉に、ルチルはただ頷きを返す。フォスフィルは…深く、息を吐き出した。
「一応、聞いておこう。今現在、お前に不自由をさせているつもりはない。学問も…今の家庭教師に、不満があるのか?」
「何も。僕は、何も不満になど思っていませんよ。でも……。
…母さんが、ああなったのは………僕が…僕の、この赤い目が、原因ですね」
それは、疑問ではなく、断定。
「母さんは、この目を見るたびに、なんと言うか…悲しそうな顔をするんです。正直、僕自身は、特に困ったこともないし、このままでもいいんですけど……これのせいで悲しむ人がいるなら、それは嫌だと思います」
「それで、家を出る…と?」
無言で頷くルチル。
「本当は、大陸中…いえ、世界中でも探し回って、この目を戻す方法を探せればいいんですけど…生憎と、僕にはそこまでの力も知識もありませんからね。ならば、手っ取り早く、知識の集まる場所に…学校に行こうと思うことが、不自然なことでしょうか?」
フォスフィルは、改めて息子に向き直る。
「自宅から通う、ということは考えなかったのか?」
「考えましたよ。でも…母さんの状態を見る限り、どうやら僕は、しばらく顔をあわせないほうがいいみたいですからね。まあ…庭の藤の木を連れて行きたいので、植え替えが終わるまでは…どうしたって、自宅通いになるとは思いますが。それでも、本宅には入らないつもりです」
さらりと言い放つルチルに、フォスフィルは息子の覚悟の深さを見た気がした。
外に出さなかったのは、母がそれを望まなかったから、だが……それでも、不自由はないと思っていた。その性情ゆえか、孤独に歪むこともなく、選民思想にとらわれるでもなく…まっすぐに、真っ白に育った息子。だが…外に出すべきときが、来たのかもしれない。
「この大陸で最大の都市テラの…その郊外に、スタークロス学園という学校がある。年齢層は広く、学べる分野も多彩…全寮制だが、事情があれば自宅通学も許可されている」
「スタークロス学園、ですか…。聞いたことはありますね」
ぽつりと呟き、ルチルは父に一礼した。
「では、僕はそこへ通うことにしましょう。いつか、この目が戻るときまで…父さんも、お元気で」
そのまま、身を翻して立ち去ろうとした、その背後に…声が、かけられた。
「ルチル…母さんの現状は、確かにその目によって引き起こされたこと。しかし……例え、その目が戻ることがなくとも、ここは、お前の家だ。いつでも、帰ってくるといい」
ルチルは立ち止まり……歪に微笑んだ。
「やだなぁ……あまりそういうこと言われると…出て行きづらくなっちゃうじゃないですか…」
そして、今度こそ歩き出す。扉を押し開けて、その奥の闇に入る、その前に……
「………いってきます」
ぽつりと、呟いて。ルチルは扉を閉めた。
「ああ、いっておいで…私たちの『ルチル=アーウィン』」
扉に阻まれて、声は届かなかっただろうけど…言葉に込められた温もりは、確かにルチルに伝わっている…。
フォスフィルは一人、祈るように手を組んだ。
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